● 『CEREMONY』のサディスティック性

 

大原 : ワークインプログレスをやったのが、一週間前ですね。全体としては、(稽古を始めてから)ちょうど半分くらい経ったところか……。 僕はかなり、ひやひやわくくしてるところですけど。ではまずは、順番に軽く、終わってみての感想を聞いていこうかな。 かおりさんは、春にショーケースでの『CEREMONY』もやって、今回やって……どうでしたか?

 

西村 : うーん。いや、すごい難しかったなと思いますね。お客さんとどう向き合えばいいのかわからなかったな。やる前は、こっちに興味を持ってもらわなきゃ…とか、距離を詰めていかなきゃと思ってたんですけど、終わってみたら、もっと突き放してよかったんじゃないかな、と思った。 みんなで一緒に作品を創りましょうって、私も宣伝する時に言ってたんですけど、言ってたわりにはお客さんと一緒に創るという演目でなかったのかもしれない。

 

大原 : そこは、蓮ちゃんはどう感じてますか?

 

楳山 : こっち来てって手招きするというよりは、手首をつかんで強引にひっぱる感じに近かった。ちょっと、強引だったかな、というはしないでもない。

 

大原 : 『CEREMONY』が?僕達が?どっちやと思う? 僕はやってみて、『CEREMONY』が思ってた以上にある意味でサディスティックな作品であったということも思ったけど。あの作品をやる上でのある種の専門性が僕らにもっとあったら、お客さんの誘導をできてたんじゃないかなとも思う。強引さは、『CEREMONY』という作品にもあるし、僕らが至らなかったから強引になってたというところも大きいんじゃないかな。

 

楳山 : 僕の知人で、観に来てくれて、「結構つらかった」と言ってくれた子がいて。積極的に参加したい気分じゃないのに、参加せざるをえない空気感ができちゃって、それがつらかったって。

 

大原 : それ自体が、東京デスロックや多田さんが日本人に対して、問い直したい部分のひとつとしてあったんかな、と思う。日本人ってみんなそれでも、嫌でもついて来ちゃうでしょ?という……。 「舞踊の儀」に参加しなかった方もいらっしゃったけど、でも何となく、ストレスを抱えながらもみんなでやってしまった……なんてことも、あの作品に組み込まれているような気がしている。僕はそれを、本番に入るまで気づいてなかった。こっちの技術とか誘導で、お客さんと朗らかに上演を終えることができるもんやと思っていたけど、結構そこは勘違いしてたな、というのが、今やから思えることだな。

 

西村 : そういう意味で、もっと突き放してもよかったのかなって思いました。

 

吉見 : 作品がサディスティックなのに、劇団しようよが優し過ぎた。

 

大原 : そうかもしれない。劇団しようよの作品って、開演1時間後とかからピースを回収していって最終的にどう観えるかって

いう作品が多くて。上演中に僕は、ちゃうねん、お客さん、あと1時間待ってくれ……て、そういう弱気な気持ちをどこかで持っていたりするんですよ。本音でいうと。そういう自分の精神性や感性で『CEREMONY』をやると、すごく苦しかった。

 

石田 : 客ふりでお客さんに対してアプローチする上で、そこでお客さんが殴りかかってきてもおかしくない、と言われたりするけど、今回、私は、そういう覚悟が足りなかったから。お客さんにこんにちはって言ったら、お客さんもこんにちはって言い返すだろうっていう、そんな気持ちでいた分、お客さんに苦しさを与えたりしたんじゃないか、というのは感じました。予測ができてなかったというか、覚悟ができてなかった。

 

大原 : 傷つけるつもりでやらないといけなかったのかもしれない。それを言葉で理解はしていたけど、ワークインプログレスを通して体でわかった気がした。

 

吉見 : 全体的にそれはあった。

 

大原 : ゆざわさんはどうでしたか?初めて演劇作品に関わるってこともあったと思うけど。しかもああいう、多分特殊な作品で…。

 

ゆざわ : いざやってみて、この『CEREMONY』は、お客さんを巻き込みたかったのか、(お客さんとの間に)壁をつくりたかったのか、わからないなって思った。あまり意識しないで稽古してきたけど、どっちだったんだろう。……って自分も思ってるし、その点で、お客さんもいかたが難しかったんじゃないかな。

 

大原 : ……居方が難しかったとか、強引な感じが嫌だったとかいう意見をいただいたけれど、でも同時に思うのは、それを僕らが解消する必要はなかったのではないかとも思っていて。そういう意味では、少なくとも、あそこでみんながひとつになる演目ではなかったんだろうと思うんですけどね。 だからまあ、僕はけっこう、今は、頭はさっぱりしている。(劇団しようよでは)あの方針でいくのは違うなと思っているところなんですよね。スーツを着て、ああいう「儀式」という様式を用いて始めるってこと以外の選択肢もたくさんあるなってことはまさに思ったし、多分、劇団しようよ版では、「日本人」を掘り下げるつもりはなくて。なので、違う戦い方が必要になってくるってことは、はっきりとわかった。そういう意味で頭はすっきりしたんだけど。

 

● 「みんないつかは死ぬ」ということ

 

大原 : これまでの稽古で何度も言ってきたけど。今回の作品では、「ひとはいつか死ぬかもしれない」ってことだったりとか、「有限の命」みたいなものが確認できる時間にできれば……と思っている。そのために、どう、この『CEREMONY』という枠組みを利用できるかな?

 

西村 : 完コピをやって、今回は、「日本人」という、お客さん一人ひとりが持っている概念に踏み込んでいったり、ぶつけたり、そういうことをする演目だったのかな、と思うんで。次やるのは、お客さん一人ひとりが、生きてたり死んでたりするっていうことに対して持っている、価値観や概念に踏み込まないといけなくなるのかな……て、考えてたんですけど。

 

石田 : 人の生きてるってことを考えるってのは難しいなって、改めて、いろいろ調べていて思いました。ダビンチが「よい生き方っていうのを考えていたら実際は死に方を考えていた」みたいな名言を残しているんですよ。生きることを考えるってことは死ぬことを考えてしまうし、そして死ぬことを演目にしてしまうと、それを観て不快に思う人もいたり、メンヘラチックな劇になってしまって、それはやりたいことと違うしなあ……と思いながら。

 

大原 : そうなんですよ。「死への憧れ」を舞台に出したくないとは思っている。

 

高橋 : 死とどう距離感をとるかってことですかね?

 

大原 : それって、かなり難しいことのようで、誰もがひとまずの答えを出せるものやとも思う。ひとまず今はこう考えていようっていうのは、言えるんじゃないかと思うし。 時代が時代だからなのか、最近の僕は、自分の命がいつまであるか……という、問いというか疑問というかを考えながら生きてるなあって思っていて。時代なんかな、年齢なんかな……。そういう感覚があるから。それをちょっとみんなで共有したいなって思うんですけど。

 

吉見 : しようよは(そのテーマを)毎回やってる気がするけど。問題は、どれくらい形式張るか形式張らずにやるかだと思う。多田さんの『CEREMONY』は、形式張ることによって、形式張ることへのアンチみたいなんがあった。けど、それを私達がワークインプログレスでやってみたところ、形式張ることって要る?ってなった。

 

大原 : そう、これじゃなくね?とちょっと思った。わからんけどね。今のところ、本番3週間前の時点ではそう思ってる。

 

吉見 : 必要ではあるのかもしれんけど。今、出て来てる我々のテーマの上では、形式張ることは重要じゃない気がする。

 

高橋 : 儀式の否定ですか?

 

大原 : それね。「儀式への否定」って今、紘介くんが言ったけど、僕は、「儀式を考え続ける」ってことな気がしている。 映像をどう使おうかなって考えてたんですよ。たとえば、初めからずっと、「What’s CEREMONY?」って書いてあったらどういう雰囲気になるだろうか。東京デスロック版では(開演前から)スクリーンにずっと「CEREMONY」って書いてあって、そうかこれは儀式なのか……という入り方をお客さんはしたと思うけど。儀式って何?っていう旗がずっと立ってる状態で始めてもいいんじゃないかな。最後にCEREMONYの正体をみんなで見つけるのか、それぞれで見つけるのかわからないけど。

 

吉見 : そっちの方が、しようよっぽいな。

 

● 「セレモニー」の再解釈

 

大原 : これをここ(対談)で言って公開されることは、かなり挑戦になるけど……。(東京デスロック版では)セレモニーを「確認し共有すること」っていう定義のもと、全部が行われていたじゃないですか。それすら再解釈していいと思っている。 同時に多田さんが「確認し共有する」と、それをコンセプトとして掲げたこと自体はやっぱりすげえなって思うんですよね。それを疑うことは、それに相当する挑戦になる、大きなことやと思っている。「セレモニー」を再解釈とかできひんかな。

 

高橋 : 「セレモニー」を何のためにするのか。それは儀式とか形式張ったやり方でやらなくてもできるじゃんってこと?

 

吉見 : そうですね。儀式イコール形式張ってる、という時点で、何か俺は違う気がする。スーツ着てきちっと礼をして……ていうのは、私たちがやる上で要らないんじゃないか。

 

高橋 : 共有認識が儀式に参加してる人に生まれていたら、形式は必要ないなって思う。外側を大事にすることっていうのは、それっぽく感じることが大事だからやってることがある。共有認識がなかったら儀式にならないから無理だろうなとも思う。

 

大原 : 形式が生まれた瞬間を考えてもおもしろいかもしれないね。

 

吉見 : そうそう。形式を前提としない方がいいんじゃないか。したくないような気がする。形式が生まれたらいいけど、生まれる前から形式をもってくるのは違う。

 

大原 : 今、改めて「儀式」という言葉を聞いて思うことを聞いてみたい。「儀式」って何やと思う?

 

西村 : うーん。春にショーケースver.を創ってた時も、「みんなの儀式とは?」とか考えてたけど。「確認し共有すること」とは言うものの、個人の中に昇華させたいものがあったり、次に繋がるステップのために儀式がある。個で確認することと、みんなで共有することがある、という話をしてたなあと思い出した。 まずは、「自分」のためのもの、かなあ。たとえば、寝る前に歯みがきをするのも、眠りにつくための大事な儀式であったり。みんなで共有するっていうより、自分が何かを改めて考えるとか、心持ちを切り替えるみたいな、そういうものは儀式として、私は、成立するなって思う。

 

大原 : わかる。それは僕も成立すると思ってる。でも…儀式と習慣はどう違うんやろね? そのレベルの、生活の上でのルーチンワークを「儀式的だ」と捉えてる感じは僕もあるし、でも、それを言葉で言い換えたら「習慣」という気がして。

 

吉見 : ニュアンス的に、俺は、習慣はパターンやけど、儀式は、普段とは違う行動をやることだと思う。今日は気持ちを変えるために、いつもと違う道を通って帰る、……とかは「儀式」。

 

楳山 : 日常と非日常の違い。習慣は日常、儀式は非日常ってことですね。

 

大原 : 今日話してる中で、「儀式」って言葉がたくさん出て来てるけど。辞書をひくと、「セレモニー」には、「儀式、式典、儀礼」という意味があって。

 

高橋 : ああ……。「セレモニー」はそこが交じってるんだな。

 

石田 : 英語ですもんね。

 

大原 : そこで混乱してるところがある。和訳した時に出てくる3つの言葉が、受ける印象として、全部違う。そこがややこしいな。蓮くんは、どう思う?

 

楳山 : (儀式は)強制されるもの……。強制的に振り返らされるというか。強制されることが、ネガティブな感情につながるとは必ずしも限らないんですよ。たとえば、葬式では、参列することによって、否応なしにその亡くなった人のことを想起するとか。

 

大原 : セレモニーに、そういう、立ち返らされるパワーがあるってことかな。

 

高橋 : 葬式は死を認めざるをえない行為、かな。そんな素直に認められないだろうけど、いくつか段階のあるうちの一個だなとは思う。

 

大原 : 4月に、(ショーケースver.の創作で)行き詰まった時に、東京へ行って多田さんにお話を聞いたんですよ。そこで、なんで『CEREMONY』を作ろうとしたんですか?って聞いて。そしたら「今まであったことを振り返りたい」ということがあって、これを創った、と言ってはったので、「振り返る」ということは重要な要素なんだろうなとは思う。

 

石田 : 私は、セレモニーとは、頭で考えてることと心で考えてることを擦り合わせる、その不一致を合わせることのような感じがしている。たとえば、成人式に行った時に、自分の頭で20歳になってるって思っても、心は思ってなかったりするじゃないですか。そこで、式に行って、ちょっとでもそれを摺り合わせることによって、その後の解に導きやすくするものなんじゃないかな。

 

大原 : そうやね。また、摺り合わせられないという事実を受け入れる、ということもあるかもしれないね。

 

● セレモニーの本質

 

大原 : 話の種類が違うかもしれないけど、(ワークインプログレスでの)「音楽の儀」の中で話してた内容で、音楽が、もともとみんなで聞くものであったのが、今は、電車の中でそれぞれがイヤホンで聞いてるのが普通になっているように、一人になるためのものになっている。でも、その一人になってるって行為が、……吉見くん、何て言ったっけ?

 

吉見 : 「空間軸では個々になってるかもしれないけど、時間軸では個々じゃないのではないか……」

 

大原 : みたいなことと、「個人のセレモニー」というものに共通する部分があるようにも思えるのよね……。自分にとっての習慣であり、誰とも共有してないけど、でも時間軸の中では共有がある、っていうのは、あるんかな。その音楽の話に近いなってさっきから聞いてて思った。

 

高橋 : 本質は近いのかもしれないのですね。

 

吉見 : 本来の儀式ってそういうところあるような気がするな。

 

大原 : そんな気がしてならないな。そこに人間の普遍的なものが眠ってるような気がするし、(今回の作品を創る上での)ヒントな気がするなって思う。

 

ゆざわ : 個人的な習慣とかルーチンは、儀であるけど式じゃない気がする。式典とか儀式には、私は、参列するイメージがある。人との共感点を感じて、安心する場じゃないかな。入学式とかも、新しいことが始まるという共通認識を持たされる場だし、お葬式も、誰かが死んで悲しんでる人が、ほかに悲しんでいる人がいるのを知って安心する場。

 

大原 : 「安心」ね。「安心」は、劇団しようよの作品を創る上でも、僕は結構大きい。何かを失くしたけど、反面、今は何かを持ってるし、明日も生きられる、というような安心感とか。そういうのは大事にしたいから、「安心」は大きな要素な気がするな。

 

ゆざわ : 儀式があって、儀式のあとを進んでいくための、落としどころをつけるためのもの、というイメージがある。

 

大原 : よーお、パンっていうのも、あれかな。あれだけで終わった感じするものね。落としどころをつける。

 

高橋 : 区切りってことですね。区切りをつけること、線を引くことですね。

 

西村 : 話を聞いていたら、習慣として自分一人でやることは、自分で発して自分で盛り上げていくものだけど、儀式になると受け入れる方が強くなる。「儀式」は、与えられるものなんだなって思いました。

 

楳山 : 与える側の人たちはどうなんだろう?

 

大原 : 主役は、与えられるんじゃない?儀礼にしても、それを執り行う人がいると思うけど、主役に対して行われている。主役が受け取るんじゃないかな。

 

石田 : だとしたら、結婚式はわかりづらいですね。みんなが新郎新婦に与えるけれど、新郎新婦がその場をつくってるから。

 

楳山 : ものすごく概念的な話になりますけど。結婚したこと、死んだ人のこと、っていう概念があったとして。それがここにあって、葬式に提供する人・参列する人も共にそれを見るという意味では、全員与えられている人ということかもしれない。

 

大原 : 広く言うと、そういう印象に感じるなあ。

 

● 「What’s CEREMONY?」

 

吉見 : そもそも、形式張った様々な現在のセレモニーについて考えるのか、これができあがったもとが何だったのかを考えるのか、によって違うんじゃないか。多田淳之介版『CERMONY』はこっち(現在のセレモニー)のことを考えてたけど、劇団しようよ版は、根っこのことを考えるべきなんじゃないか

 

高橋 : 「What’s CEREMONY?」って言うんだったら、そうですね。

 

石田 : 「What’s CEREMONY?」って言うんだったら、セレモニーの定義を私たちの中に持たない方がいいような気がする。お客さんの中に持っていてほしいから、あんまり提示しない方が「What’s CEREMONY?」感があるなあ。

 

楳山 : 提示する必要はないけど、持ってる必要はあるんじゃない?

 

高橋 : 答えは持てないかもしれないけど、問いを明確にする、問いを持つことは大事でしょうね。

 

大原 : 僕は、人が集まって一個のことを考えたらセレモニーになるでしょ、っていうようなことで終わりたいなって思う。それがわかって、明日からも誰かに会いたくなって誰かに会ったりとか、人として生きようと思う作品にしたいなと思うんですよ。ということに、できると思っている。「What’s CEREMONY?」という問いから。 この『CEREMONY』という作品のコンセプトを使って、「有限の命」とか「死がいつか来る」ってことを踏まえて、そういうことを思えるんじゃないか。だからそこでも、僕のやりたいことは一緒なんだけど、どう生きるかという問題に行き着くことにできるんじゃないかなと思っている。

 

吉見 : なるほどね。じゃあやっぱり、結婚式の様々な種類であったり、葬式の様々な種類であったりは、ほんまに素材としては使えるけど、この作品の本質ではないな。

 

大原 : お客さんの中でイメージしてるセレモニーを分解していく作業になればいいかな。「セレモニー」という言葉を聞いて、お葬式を思い浮かべる人もいれば、歯磨きをイメージする人がいるかもしれない。そんな色々なことを思った時に、「あそうかセレモニーってのはこういうことすることやな」と、その行為の中側をもう一度捉えなおすとか。そのセレモニーを経て、私はこれからも生きていくんやなとか、でもあの人は死んだなとか。…色々考える中で、自分のセレモニーの概念が分解されて、一番シンプルなものになる。一番最少単位になる、ということができればいいなってことは思いますね。

 

高橋 : 儀式は、思い知る場やと思うんですね。その儀式をすることで、こういうことになりました、ってことを、自分が思い知ることもそうだし、それを、集団の中でほかの人も同時に知るっていう。その式が終わった後では、否応なく小学生にならざるを得ないし、周りの人もどこどこ小学校の子として扱わざるを得ない、というような。強い強制力を持ってるし、それを思い知らされる場所なんじゃないかな。

 

大原 : デスロック版を観ていて思ったけど、コスチュームがしめてる役割ってでかいよな?ちゃんとしなきゃいけなかったり、浴衣を着たほうが参加した感じになったり。セレモニーの重要な要素として、コスチュームの側面はあるんかな。

 

高橋 : 宗教的なことでは、形式や見ためはとても大事だと思いますね。

 

石田 : 大原さんがこの前の稽古の時に言ってた、土足の高校の話もそうですよね。

 

大原 : そうそう。最近、高校へワークショップをしに行っているんだけど、ある学校で、生徒たちが全然人の話を聞けないところがあって。そこの学校は、はっきり言って汚いんですよ。というのは、土足のままあがる学校なんですね。だから砂とかホコリとかで汚れてしまうんだけど。土足のまま学校にあがって、教室に入るから、自分にけじめつける瞬間がない。ここで上履きに替えようとか、制服に着替えるとか、そういうけじめが、自分たちの意識しない範囲でコントロールされているんだなというのをすごく感じたから。制服を着る、履くものを替えるとかは、そういう部分に如実に関わってるなと思う。

 

● 演劇はセレモニーか?

 

大原 : 一方で、劇場へ来るっていうことが、観劇に来るのに慣れているかどうかは人によって差があるにしろ、日常ではないって部分があるじゃないですか。そこをどう捉えるかっていうのが、難しい。僕らは、少なくともお客さんと比べて、劇場へ行くことは、ハードルが高いことや特殊なことでなくなってる中で、そこの感覚をちゃんとおさえながら創らなあかんなと思うんですよね。

 

西村 : 演劇を観るのは儀式なんですか?

 

大原 : いやぁ、儀式やと思うなあ。セレモニーやと思う。僕は。

 

石田 : そう考えると、セレモニーじゃないことが結構、あまりない。

 

大原 : 稽古場でも話してたけど、セレモニーを壊すっていうか、『CEREMONY』というタイトルの作品をやって、セレモニーじゃなかったな、と思わせるのは難しい。

 

高橋 : ワークインプログレスで、お客さんが居心地が悪そうになったのは、そりゃそうだろうなって思っている。お客さんとコミュニケーションして、ダイレクトに反応を感じられたのは、よかったというか、珍しい体験だったと思うんですけど、僕はやっぱり、あれは演劇じゃないと思ってやっていた。僕は、仕事で地域のシンポジウムに参加したりすることもあるんですけど、そういうとこでは、誰かが挨拶したりすることもあるけど、あんな風にかしこまってしゃべらないんですよね。もっとフランク。今回、僕はその感じでいようと思っていたんです。そうするとまあ、お客さんが否応なく参加せざるを得ない。お客さんが参加することで成立するってのが如実にある。こっちが何かやって、お客さんの反応があって、ようやく立ち上がってくるっていうのは、それは、演劇じゃないと言いつつ、すごくそこは「演劇」をクリアに感じた。お客さんとコミュニケーションをとってそこにできたものは、普段演劇でつくろうとしてるものであって、それがリアルに目の前にあったな、と。楽しんでるお客さんもそうだし、嫌がってるお客さんもそう。だからすごく「演劇」ではあった。

 

大原 : どっちなの最終的には。

 

高橋 : うーん、どっちも。……どっちとか言えないですね。

 

大原 : 「演劇」がなにかという境界線も難しいな。

 

石田 : ですね……。

 

大原 : ……というわけで、そろそろ終わらないといけないんでまとめますけど。ワークインプログレスを経て、とてもいいチャンスにできたなと思っているんです。これを経て、劇団しようよなりの、僕達なりの答え、作品を創っていけたらなと思っています。がんばっていきましょう。